History

下町生まれ

 

公務員で超子煩悩な父と、「社会の常識や世間体より志が大事」な母の長女として、江東区南砂町に生まれる。

1969年1月19日

1972年 3歳

自由過ぎる少女

 

思えば小さい頃から「ああしなさい、こうしなさい、これしちゃダメ」と言われたことがなかった。「佳恵の好きにしなさい」が口癖の母と、溺愛はするが干渉しない父の子として、あまり怒られた記憶なく育つ。今となっては、自由すぎる性格に育ててくれた父母には感謝しかない。

1977年​ 8歳

​根拠なき自信

 

小学生時代、どうやら自分は「モテる」らしいことを認識し、少し根拠なき自信を育てていく。勉強はできるけど、運動はあまりできなくて、やたら女の子っぽい女子。目立ってるグループにいて、その一番手に得意げに連れ回されるポジション。当時の写真を見ると、常にこんな感じ(中央で首傾けてる子w)。中学生までこの「ぶりっ子」体質は続く。

1979年 10歳

​埼玉の決意

 

父が一軒家を買い、下町から埼玉の片田舎・志木へ引越す。

「こんな田舎で人生終わるもんか」と決意を固める。アイドル全盛期、当時の写真はみな、この「口ちょっと半開き」笑 男の子にはやたらもてたけど、女の子からはちょっと意地悪されることもあった...今思えば納得、こんなやつ(笑)。

1982年 13歳

​おしゃれ覚醒

 

「女の子は、勉強ができることより、おしゃれでかわいいことの方が何倍もイケてる!」と思い、中学1年の1学期、450人中5位になったのを最後に勉学への興味を失う。担任の先生に「君はミラクルガールなんだ、そんな友達と付き合ってないで勉強しなさい」と叩かれても無視。放任主義の親には当然何も言われない。

1983年 14歳

​オリーブ少女に憧れて

 

あー、こんな田舎ほんといや!と鬱々とした日々。この頃の一番の楽しみは、「3と15のoliveの日」と、出会って衝撃を受けたユーミンの世界に浸ることで、埼玉の片田舎の少女を忘れ、都会のおしゃれでスノッブな自分を常に妄想すること。写真は農家の友人の庭先で撮ったスナップ(笑) 髪型はキョンキョンに憧れてショートにしてパーマをかけた(もちろんパーマ禁止だがw)。

1985年 16歳 

​雑誌偏愛

 

あんなに田舎が嫌だったのに、一番仲良しの友達がそこを受けるから、という全くもってしょうもない理由で高校を決める。しかし、その親友は落ちるという、何の意味もない高校生活スタート。地元ではそこそこ賢い学校だったものの、片田舎の女子高生を抜け出せない自分が嫌で、親友もいなくなっちゃったし、全く高校生活に興味なし。ひたすら、雑誌の世界に没頭し、現実逃避を図る。唯一の楽しみは、週末のolive片手に...の代官山&原宿散歩。街を歩いていたら、二大愛読書の「Mcシスター」のスナップに声をかけられ撮影されシスターに掲載。「おしゃれにしていたら、あんな田舎に住んでても人生は開けるんだ!」と希望を見出し、雑誌愛がますます深まる。

17歳初めての挫折、上昇志向に火がつく

 

中学の友人に六本木のディスコ(当時はクラブは存在しないw)で行われてる都内私立高校のダンスパーティ(通称ダンパw)に連れてってもらう。声をかけられるも、高校名を答えると「知らなーい。つか、私立じゃないんだ」とすげなくされる。今思えば、「どうでもよくない???』と言うくだらない出来事だが多感な17歳には衝撃だった。高校時代、先輩にファンクラブがあったり、そこそこイケてる自信があっただけにちっぽけな自尊心は木っ端微塵に砕かられる。「絶対都会の女になってやる!」笑しょうもない上昇志向に火がついた瞬間

1986年 17歳

1986年 17歳

​女子大生の肩書きゲット

 

「イケてる女子高生にはなれなかったけど、起死回生! とにかく女子大生ってものになって、この鬱々とした片田舎を飛び出し、イケてる人生を送ろう!」と、毎日oliveとシスターを熟読し、ユーミンを聴きまくって、イケてる女子大生になる!ことだけをモチベーションに受験勉強に励む。とはいえ、そもそも学校の勉強に興味がないので、たいして頑張れず、一番行きたかったユーミンの母校・立教女学院を筆頭に、全て落ちる。とはいえ、学びたいこともなく、ただ女子大生になるのが目的だったので、浪人する気にもなれず、「げ、近所じゃーん」と多少の不満を抱きつつも、跡見学園女子大学の2次募集を受け合格、女子大生の肩書きゲット。

1989年 20歳 

デート、合コン、バイトが9割

 

時はバブル絶頂期。学校へはほぼ行かず、渋谷六本木に繰り出す日々。デート、合コン、そしてタレントの端くれとかイベントコンパニオンとかそんなバイトでスケジュールの9割が埋められていた頃。とにかく頭の中は「おしゃれになりたい、可愛くなりたい、モテたい!」こんなしょうもないことで埋め尽くされていた。しかし、この時抱いていた気持ちがのちに功を奏するので、人生すべて無駄じゃない、と乱痴気騒ぎしてる当時の彼女にいってあげたいかな笑

 

​21歳初めての大失恋により、「思考停止」が解除、考え始める

 

初めて大好きな彼氏ができる。時はバブル、アッシーメッシーミツグくんをしてもらうのが当たり前だった時代、何もしてくれない彼氏に「お前が今までどんな男と付き合ってきたのか知らないけど、俺はそんなしょうもないことしない。つか、お前、そんなことが女の価値だと思ってるのとか、まじ終わってる、つまんない女だな」と言われ振られ、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受ける。
可愛いだけじゃダメなんだ、、、小さな脳みそが初めて「思考」を始める

1990年 21歳

1991年 22歳

​就活拒否の最中「仕事の本質」を教えてもらう

 

「どうせ跡見だし、パパ偉くないし、なれたところでただのOL。。。電車とか絶対乗りたくないし、事務なんか死んでもヤダ。そんな人生まっぴらごめん」と、何者でもないくせに、就職活動を拒否笑。タレントの端くれ仕事しながら「とはいえ、プロとして通用するほどの才能もないんだよな」と自分の限界を知り、途方に暮れた頃、常連だったホットドッグプレスの読モ撮影に行くと「佳恵、就職どうすんの?」「決まってなーい」「お前ライター向いてるよ、やれば?」「え、だって、卒論書いてなくて留年しちゃう女だよ?無理じゃない?」「ばか、仕事の本質わかってねえな。雑誌のライターってのは、とにかく雑誌が好きで、ミーハーで、フットワーク軽くて、流行り物分析すんのが好きで、そっちの能力の方が何倍も大事。原稿なんて書けるようになるよ」。あら、そう、じゃあ、やるだけやってみよう! で面接、採用。めでたく講談社でライター修行活動開始。ちなみに右の写真は、そんな講談社で働き始めた頃「週刊現代」の編集さんに「渡辺、ライターになるってことは就職しなってことだよな? 今、"人事部の皆様、私を雇ってくださ〜い”って水着着て出る企画あんだけど人足りなくてさ。でてよ」と言われ、「いいっすよ」で引き受けた笑

1992年 23歳

​なれてセレブ主婦と思ってたのに、、、仕事万歳!

 

「自分には何も才能はない。あるとしたら、小さい頃から男には少しモテてきた。だから、私の上がりなんて、すご〜〜く頑張ってセレブ主婦」と心から思っていた。が、しかし! やってみたら向いてて面白かった雑誌のライター。水着着てクイズ番組のアシスタントしたりで月に30万近い収入を得ていたのに比べ、3日徹夜して死ぬ気で原稿書いてもらえるギャラは5万。。。だけれど、なんて楽しいんだ! と、仕事の楽しさに目覚め、しょうもないバイトから全て足を洗い、ライターとして生きていく覚悟を決める。。。と、どうせならもっと自分の才能を生かせる場所で活躍したい」と小学館の門を叩き、oggiでライター活動開始。その後、CanCamの編集者にスカウトされ、CanCamへ。「仕事めちゃ楽しい!!」を初めて実感する。

2000年 31歳

​史上最大の自己嫌悪

 

29歳で結婚、30歳で長女出産。子育てをしながらCanCamを続ける。旦那さんは協力的な人で、育児と仕事の両立という面ではストレスはほぼゼロ。しかし、妊娠して激太り、仕事も、元アシスタントよりイケてないページを担当するなど、イケてないポジションになり、ひどく焦り落ち込む。「一般論でいうと、理解のある優しい旦那と、楽しい仕事と可愛い子供がいるんだから、これでいいじゃん」と自分を納得させようとするも、どんどん僻みっぽくなったり、自嘲的になって行く自分に辛くなる。自分のことが一番嫌いだった時代。

2001年 32歳

​心の蓋、オ〜プン

 

「腐っていても仕方ない、アピールしてみたりしよう」と、上に働きかけた結果、CanCam初のファッションディレクターを任される。重大な責任があり、周りの目も気になったが「私ならできる気がする」と根拠なき自信で引き受ける。もちろん、すぐに結果はでず、靴に画鋲を入れられたり、無視されたりなどわかりやすいいじめにあうも、それがかえって原動力となり奮起。と、同時に、自分の中にあった欲求を勇気を出して直視。するとそこには「女性としてもう一度輝きたい」という欲求が。ディレクターとして表に出る機会が増えることも相まって、一大決心をして8キロ痩せたり、肌の手入れに夢中になる。のちに仕事の核となる美容ゴトに目覚めたきっかけがこれ。

2003年 34歳

​初めての成功体験、初めての自信

 

ディレクターとしての使命は一つ、「部数を上げること」。自分がガチの読者だった頃を考えた。頭の中は「可愛くなること、おしゃれになること、モテること」で99%埋め尽くされていた。前者二つはそもそもファッション雑誌の根幹なので当たり前にどこでもやっているが、当時、どの雑誌でもモテは提唱してなかった。だからこそチャンスだと思い「めちゃモテ」を徹底的に掲げた。スタッフやモデルを育てた。就任当時20万部だった月間部数は80万部に。毎月完売パーティをしたり、テレビやラジオで取材されたり、大成功を収める。もちろん自分一人の力ではないが、この成功の一端をになっている自負はあった。この時生まれて初めて、自分に自信が持てるようになる。

2004年2月 35歳

​一転、ニートに

 

CanCamを売るために考えたコンセプト「めちゃモテ」は、外見取り繕って、男に選ばれる女になろうね、だった。おかげで白ワンピにピンクカーデのOLが世間に溢れかえった。任務としては大正解、でも、自分の心の中に当時あったものは「女は選ばれ待ちじゃなく、自分で選べる女になった方が何万倍も幸せ。私は何、こんな昭和な女を増やしてるんだ」と自分がやっていることに愕然とし、さらに、当時の保守的な環境に耐えきれず、ちゃぶ台をひっくり返し、最悪の形で編集部を飛び出し、以来、出禁に。そして7ヶ月ニートに。

2004年9月 35歳

​初の起業。会社名は”情熱"

 

自分の幼稚さにより、最悪の形で編集部を去ったせいで、色々障害があった7ヶ月。腐っていても仕方ない、と、会社を起こす。自分の一番の強みってなんだろう、を考え「なーんもないけど、情熱だけは負けないかなあ〜」で、株式会社スイーブル(フランス語で情熱って意味)設立。ファッション&ビューティプロデューサーを名乗るも仕事は来ず 笑  待っててもしょうがない、と当時ハシリだったブログを開設、ひたすら自分発信を頑張ってると、仕事の依頼が舞い込むようになる。と同時にめでたく2ちゃんねるも開設w。一時期は「人気ブロガー佳恵さんに聞く〜〜〜」みたいなイベントに呼ばれたりして、その度に激しい違和感を感じ「ブロガーとしてではない、仕事がしたい」と強く感じるようになる。一方、講演にも積極的に登壇するようになり、「苦手だと思っていた」人前で話すことの楽しさを初めて知る。

2007年〜 38歳

美的のアドバイザーに。以後10年以上「美容雑誌NO1」をサポート

 

ネットが盛んになり、良い雑誌を作れば売れる、という時代が陰り始めていた頃、編集長から「マーケティング目線で売れる美的を考えてほしい」とご依頼いただき、お受けする。美容雑誌は、「困ってる人の方がニーズが高い」のでターゲット年齢を上げること、コンセプトを明確にし、そのコンセプトに沿った紙面作りをすること、SNSを活用することなど提案し、美容雑誌NO1へ導く手伝いをさせてもらう。

「紀香バディ」発刊​​。異例のヒットに

 

藤原紀香さんが若手の頃、ご一緒していたのが縁で、藤原さん初の美容本のプロデュースを依頼される。とても美容通な彼女、けれど、当時まだ藤原さんに美容通のイメージがなかったので、美容雑誌で連載をお願いし、情報発信、その後本を出版。美容本では異例の14万部というヒットとなる。これをきっかけに、モデルやスタイリストのライフスタイル本をいくつかプロデュース。プロデュースする本は全て重版出来!

2007年6月 38歳

2008年 39歳

​「アナCAN​」で女子アナのビジュアルプロデュース

 

「ファッション編集者は、その女性がどうしたら一番素敵に見えるか瞬時に理解し、それを表現できて当たり前」と思っていたので、これをスキルとも思っていなかったとき、編集部やめて知り合った異業種の友人に「それはものすごい才能。もっと生かしたほうが良い」と言われたのがきっかけで、モデルやタレントなどいろいろな方のビジュアルプロデュースの仕事を引き受けるようになる。その一つがこれ。TBS「アナCAN」で2年連続で新人女子アナのビジュアルプロデュースを手がけさせてもらう。

​「とくダネ」コメンテーター出演で自分の弱点を知る

 

講演やセミナーで人前で話すのに慣れていた頃、「とくダネ!」のコメンテーターのオファーを受ける。結果は惨敗笑 講演やラジオでは自然に話せてもテレビの生番組では自然に話せない自分の弱点を知る。ここは未だ克服できていない笑

2008年 39歳

「女アゲ塾」主宰。自分がやりたい仕事の一つを知る​​

 

モデルや女子アナのビジュアルプロデュースを仕事にしたのをきっかけに「外見が変わると、人は自信がつく!!」。編集者として長年思っていたことと合致。誰かの人生の背中を押すことの喜びとやりがいを実感。一般の方にも同じことを提供しようと、小人数制の塾を開講。ファッション、美容、料理などのレッスンを開く。

2009年10月 40歳

2010年4月 41歳

女性スペシャリスト集団をプロデュースする、伊勢丹でイベントをするほどまでになるも虚しく、、、

ダイエットコーチ、スタイリスト、料理研究家、美容家など女性スペシャリスト集団「Love Me LAB(ラブミーラボ)」を結成。スペシャリストのブランディングや外見をプロデュースしながら伊勢丹などでコラボイベントを行ったり、雑誌掲載やテレビ出演につなげたりエージェント的な動きもする。しかし、何者でもなかった人をプロデュースし何者かまで育てたところで「さて、これからマネタイズ」というタイミングで次々にさられ人をプロデュースすることに疲れてしまい、解散する

自身の肌悩みがきっかけとなり初のコスメをプロデュース​

 

自分自身が肌荒れに悩んだのをきっかけに、スキンケアを深く学ぶようになる。世の中にはユーザーのことを考えたものと、企業の利益優先のものが存在することを強く感じ、「ちゃんと使って意味のあるコスメが作りたい」と初のコスメプロデュース。誘導体ではないビタミンCを使った「EVO」を発売する

2010年6月 41歳

2010年9月 41歳

託児所付き総合美容ショップ「rinato」作る​も、、、

 

友人のモデルが「エステに来ました」というブログを発信してバッシングされていることに違和感。「日本は母親になった瞬間、24時間365日母親であることを求められる。もっと自由に母親であっても女性である時間を前向きに楽しんでもいいはず!」というメッセージを発信したい、と、二階が託児所、その隣がヨガスタジオ、一階がオーガニックレストラン、地下がスパという総合美容ショップをプロデュース。テレビや雑誌に掲載200誌以上、とPRは成功するが、実際の経営は芳しくなく、雇われプロデューサーとして、最初の契約は白紙に戻され、「ギャラは払えません」と言われるも、立ち上げた以上、成功させたい、という思いと、愛着を持っていたので「収入は他のことで稼ぎますので、やリます」と2年間、無償でプロデュース&運営に携わる

​「3Nails」を立ち上げるも悲劇、いや喜劇が待ち受ける

 

不恰好な指へのコンプレックスが軽減されることに喜びを見出し、ネイルサロン通い10年。しかし毎度の「値段が高くて&時間がかかる」を解消したい、と「自分の家でオフできるジェルネイルとオフ剤」を開発。そのことにより、自宅でオフできるから「30分で塗り終えて、3週間もち、一回3000円でできる」をコンセプトに3Nailsをまずはポップアップショップとして立ち上げる。親交のあった山田優さんが婚約会見の時に見せた爪が3Nailsで一気に話題になり問い合わせ殺到するも、その直後、実装するタイミングでオーナーに「もう完成したからキミいらない」と言われ、追い出される。契約書も巻かず思いつきでビジネスを走らせる癖が招いた悲劇、いや喜劇。

2012年5月 43歳

2012年6月 43歳

​財布の中身は2000円、、、43歳にしてホームレスに

 

PR的には大成功していたrinato、しかしその内実は火の車。私は無償で働くも、そんな減額は焼け石に水。オーナーが3回変わる。最後にオーナーになった人物は投資家。「俺はrinatoを買ったんじゃない、渡辺佳恵を買ったんだ。今の会社を潰してrintoの社長をやりなさい。お給料をあげます。今の家も会社名義に変更して出してあげる」と。22歳で働き始め、一度も雇われたことがなく、成功報酬型でしか働いてこなかったゆえにそのやり方に違和感を覚える。さらに、「ママだって女です!」を世に広めたくて作ったrinatoなのに、数字を見たらレストラン以外赤字だから閉める、と言われ、激怒。社長就任2週間後に「やめます!」「どうぞ、でも、今の家は社宅だから出ていて」「はいもちろん」といったものの、銀行を見ても全財産2000円。「とはいえ、カードは翌月払い、それまでに稼ごう。気分が滅入るところに暮らしても」とウエスティンに滞在。3日後、その状況を笑いながら友人に話すと「であれば、うちに来て家事と育児を手伝って。部屋空いてるし」と友人のご厚意に甘え、家事と育児をしながらの居候生活スタート。

ホームレス脱出からの料理教室で生計を立てる

 

居候生活を脱出すべく、知り合いに頭を下げまくって仕事をもらう。とはいえ「ブランドプロデューサー」というわかりにくい職業、なかなかオファーが来るとも思えず、誰の力も借りずできることはなんだろう? を考え、rinato時代に趣味半分でやっていた料理教室なら、自分のブログで告知して集客できるので、それにしよう、と決め、カウンターキッチンがある部屋を借りる資金を貯めるのを目標に頑張る。100万貯まったところで、ホームレス脱出。料理教室を開催し、ブログで告知、集客、という生活。「ああ、ブログ頑張っていてよかった」と自己発信を続けていることの大切さを身にしみる。

2012年9月 43歳

​再出発。「One to Ten」 創業

 

とはいえ、本業の「ブランドプロデュース」を再びやりたい、と思い、再び会社を設立。自分のお節介な性格を考え、またこれまでの実績を思い、「1を10にするお手伝いを、1から10までやります」という想いを込めて、「One to Ten」という社名に。

2013年 44歳

​「ニカキレ」創刊編集長に。しかし一号出して出版社倒産で、、、

 

アラフォー向けに新しい美容雑誌を立ち上げたいとオファーを受ける。アラフォー美容雑誌=美魔女しかなかったのに違和感を覚えていたので時代を読み「ゆるっと綺麗さん」をコンセプトに雑誌「ニカキレ」を立ち上げる。表紙に大ブレイク直前の神崎恵さんを起用し話題になるも、2号目制作中に版元の出版社が倒産。結局またしても「ギャランティ取りっぱぐれ」の憂き目にあう

2014年4月 45歳

2015年4月 46歳

​オンラインサロン開始。会員数100人を超えるも、、、

 

オンラインサロンの創世記、知人に勧められ、開始。「自分のスキルで何を提供したら満足してもらえるだろう?」を考え、モデルや女子アナ、タレントさんなどのビジュアルプロデュースをしていた経験を生かし、その人の外見をプロデュースする「あなた史上最高の自分にします」オンラインサロンを開講。会費9000円と高単価ながら100人近いサロン生を集める。オンライン上で外見のアップデートをしながら、リアルイベントでメイクレッスンや買物同行などを行う。「生まれて初めてのモテ期が来ました」「人に嫉妬しなくなりました」「自信が持てるようになって転職活動成功しました」など嬉しい言葉をもらう。

2015年6月 46歳

「Daniella&GEMMA」​誕生

 

「1から10まで、1を10にする手伝いがしたい」という企業メッセージは、それまで、コンサルだけ、PRだけをしていて、「ワンストップで関わらないと、本当の意味ではお役に立てない」というジレンマから生まれたもの。「靴は作れます。自社工場もあります。でもブランドを作れる自信がなくて」という企業さんからご依頼いただき、初のトータルブランドプロデュースを請け負う。コンセプト設計、ロゴ開発、店舗開発、ウエブ制作、商品ディレクション、PR&販促まですべてトータルで手がける。広告費ゼロ円ながら、SNSやメディア露出を中心に人気のブランドとなり、ルミネのポップアップショップでは歴史に残る売り上げを叩き出す。

2015年9月 46歳

​本当に欲しいコスメを、、とはるばるナイジェリアに原材料を求めて納得したコスメを作るも、、、

「ユーザーにとって、明日の肌にも20年後の肌にも良いコスメを作りたい」と、敏腕コスメ開発者と意気投合。3年の開発期間を経て、ココナッツオイルのスキンケアコスメを開発。とにかく原料にこだわり、世界でいちばん優れているオイルを探し、ナイジェリアのココナッツオイルに出会う。フェアトレードで現地の女性を支援する取り組みにも成功。華々しくデビューイベントを行い、雑誌などに多数掲載される。しかし、半年後、信頼していたビジネスパートナーに裏切られ、又してもブランドを手放すことに。。。

2017年2月 48歳

初の自社事業はど赤字で大失敗。しかし仕事の面白さを再認識​

 

「死ぬまで仕事したい」と思った時、クライアント仕事しかないことに危機感を覚え、自社事業を始めようと思う。「飽きることなく&スモールスタートで始められて&自分の得意を生かせるもの」で恋愛ウエブメディア「Lips」を立ち上げる。ライターに記事を書いてもらうだけでなく、自ら恋愛相談や恋愛小説の連載を書き奮闘するも、そんなに世間は甘くなくコストをかけなければリターンもないことに8ヶ月後に気づき、売却。大きな損失を負うも、「自分で全てコントロールできる」仕事の面白さを改めて実感する。

「RESALON」オープン。初めての手応えを感じる​

 

自身が40代に入り、悩み続けた「薄毛&髪質が悪くなった」問題。様々な商品を使い、施術をおこなうも解決せず。。。。苦節8年、劇的に改善する商品とメソッドに出会う。同じ悩みを持つ女性を救いたい、とまずは知人の美容院の個室を1つ借り、「美髪育毛専門サロンRESALON」ポップアップサロンスタート。あっという間に予約困難に。ニーズの高さを痛感し、完全個室の本店を翌年にグランドオープン、これまた予約困難、一時期は予約5年待ちに。予約困難を解決すべく、表参道に2号店をオープン、翌年には大阪梅田にもオープン。「遠方でサロンに来れない人のために」と開発したオリジナルホームケアも発売。発売1ヶ月で完売する、という人気商品となる。

2018年 49歳

2019年 50歳

​「RECLINIC」プロデュース​。願いが叶っていく、、、

 

「女性の頭皮と髪の悩みを根本改善したい」と立ち上げたRESALON。「髪だけではなく、体の中や肌もとことん改善したい」という同じ志を持つ、予防医学の第一人者・斎藤糧三医師と、再生医療に用いられるヒト幹細胞培養液の日本の第一人者・野中氏と意気投合し、「細胞機能再生クリニックRECLINIC」のプロデューサーを務める。

2019年 50歳

​ライフワークともいえる「わたし革命塾」スタート

 

日々、数多くの女性の悩みに向き合い、これまで、外見改造講座やオンラインサロンをしてきた経験も踏まえ、「本当の意味で女性が自信を持てるようになるのは、意識を変えるしかない」と、少人数制、完全コミットする「あなたの可能性を最大限に引き出す わたし革命塾」を開講する決意をする。ユーザー満足度を最大限に高めるべく、0期生とともにテストマーケを実施中。その意見をもとに、2020年春に塾を開講。

2020年 51歳

​二度目のオンラインサロン開講

 

自らの力で人生を切り開く力をつけたい女性を応援し、「働き方、恋愛、結婚、子育て、お金のこと、ストレスケア、美容、ファッション、セックス」など、女性が生きていく上で大切なことを実践的に学びながら、楽しく成長していく場所作りを目指し、スタート。
「人生いつからだって変われる」は私の口癖です。

© 2020 by Watanabe Yoshie